昭和45年02月26日 夜の御理解
何の稽古でも楽しくなるとか、または面白うなると言う所までが、まあ辛抱のしどころだろうとこう思うんですけれども、信心もねやはり此処までは頂いておかないと、と言う所がやっぱあります。今日丁度四時の御祈念、敬親会が終わった後でしたか、後にあの若い方達がおらすけん三、四人あそこに集まってから、丁度若先生も宮ノ陣の大祭から帰ってまいりまして四、五人、床のコタツの間で色々信心話をしておりました時に、信司さんがこう言う事を言うて居りますですね。
本当に今まで和賀心、和賀心と言う事を繰り返し聞かせて頂いて、そのう本当に和賀心にならにゃいけんなと思うて勤めてみると、けれども勤めてみるけれどもなかなか難しい事だと言う、思うておったが。今度はあの寒修行を開けてからお山にあぁしてお水を頂きに、お滝を頂きに参りましたですね、あの頃から私の信心の、まぁ別な意味での目が開けて来たと言う事を話して居りましたが。
どうして今までこんなに和賀心と言う事は大事である事は頭で分かっておりながら、その和賀心になる事の為の修行をしていなかっただろうかと気付いてね、もうそれから非常に楽しくなったとこう言うてます。私はそれを聞かせてもらってですね、もう信司さんそこまで頂いたら大丈夫ねと言うて、まあ申した事でした。和賀心になる事の為の修行です、おかげを頂く為の修行じゃない。
和賀心になる事の為の修行をする。ですから毎日毎日腹の立つ様な事が起こって来るのも、それも和賀心に成る事の為の修行ですから、それが、腹は立つけれども、またある意味で楽しい、ははー是によって、此処でだから腹を立てたりこうしたりしたら和賀心になれないと、それが修行だとこう言うふうに感じられる様になった。だからそれが厳しいければ厳しいほどその思いがいよいよ強うなるとこう言う。
はぁ大変な事を分からせて頂いたねと云ったんですけれども、そこまで参りますとですね、和賀心と言うものが育って行くに違いないです、所が頭でそうだなとお話を聞きゃ聞く程和賀心になれたらなれたがいいし、またなろうと勤めて見るけれどもね、ただ勤めておると言うだけでは決して育てなかった所がね、和賀心になる事のための修行をどうして今までそする事に気が付かなかっただろうかとこう言うておりますね。
だからそこん所がですね、それは成る程、まだこれからは何回お試しも有りましょう、節にも会いましょうけれどね、そこん所が分かったらもう信心はある意味で大丈夫だと私は思うんですね、それこそ一生掛ったってそこが分からん人があります、何十年信心をしとったって、毎日お参りして来ておってもそこん所に気が付かない人がありますよね。
どうぞ。